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本物の生き方―人間の価値を決める「心がけ」 (PHP文庫)本物の生き方―人間の価値を決める「心がけ」 (PHP文庫)
(1997/10)
山崎 武也

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感想文一回目
ただ長い

とても面白く無さそうなタイトルな本。それが第一印象でした。
知り合いにこれとかどうよと笑いながら勧められて、何かの縁かねぇと読んでみました。
思考の面で共感できる部分はそこまで多くありませんでしたが、参考になる記述は割りとあったので羅列します。


欲が強いと利己的になり、視野が狭くなる。
方向性を見失い、どこに向かっていいかもわからず、信念も持てぬまま世の流れに同調してしまう。
故に、欲を抑えるべきだ。


第一部:筋を通して生きる
人は誰でも、自分にとって都合のいいことはそのまま変わらないで続いてほしいと思い、都合の悪いことは早く変わってほしいと思う。
だが現実は違う、世の中は変わっていく。
そこで、人生においては、全てが変化していくという前提に立って、身を処していく心構えが必要になる。そうでないと、常に幻滅を感じる結果になり、人生に対して消極的な考えになってしまう。
変化に直面したときに重要なのは、よい方向か悪い方向かの見極め。
ところが、次々と変化していく世の中で、自分の状況を客観的に観察する余裕がなくなる。安全に身を処そうとする本能にしたがって、深くも考えずに変化に適応する姿勢になる。
→何回も出てくるけど、客観的に見ましょう。と

ルールは守るためにあるのではなく、人間を拘束するためにあるのでもない。
より住みやすい人間社会にするための手段。ルールを破ろうとする人に破る資格はない。
ルールを生かそうとする人のみが、ルールを左右できる。
→何かに応用できないかと気になってメモ。

情報を仕入れすぎても、利用しなければ意味がない。利用価値のあるものとないものを取捨選択しないといけない。
そのためには、あまり努力をしなくても入ってくる情報を遠ざけてみる、例えばテレビ。
活字を追うのはいい手段だ、テレビと違い自分のペースで情報を仕入れられ、色々な事を考えられる時間がある。
だからといって、次々に手当たり次第読めばいいわけではない。
狙いを定めて、その方向に沿ったものに限定して読む。
一見したところ、視野が狭くなるようにみえる、専門的に突っ込んで考える習慣が身につくので深い勉強ができる。広く浅く知識を求めただけでは、特徴の無い考えになるが、深く追求すれば少なくとも独自性を築き上げることができる。
時代の流れに多少は疎くなるかもしれない、そんなことも知らないでといわれるかもしれない。だが世の中の流れを忠実に追ったところで、何かいいことがあるのか。世間の流れに少し遅れてついていくくらいが、安全だろう。
→本も催眠みたいにひたすら読んでしまうこともあるし、絶対ではないと思うけど……

物が不足していた時は、金にもあまり力がなかった。今は物がいっぱいある、どんな物でも買える世の中、そこで金が価値の尺度になっている。だから、質は良くなくても高ければ価値があると勘違いする人がでてくる。
→最初の方はネタを重視せずにメモしてたらしい。面白い文をメモってたのだろうか

規制を作る必要性が生じるのは、人間同士お互いが信用できなくなったときだ。中のよい夫婦にルールは必要ない。お互い助け合うという基本的な姿勢が確立されているからである。
不文律→暗黙の了解。文章にしなくても成立しているもの
礼儀作法は、何も自分を縛りつけるものではない。相手の身になって考えるのが原点で、社会が円満にいくようにと形成された行動基準。
→この考え方いいなぁと思ってたはず


第二部:自分の流儀を確立し貫く
自分自身の信念がないので、すぐに人に大きく影響される。
信念のない部分は影響されて揺らぎやすい。
→自覚はしてるけど、一つ絶大な信念を持つと他がどうでもよくなりがち

人間は誰でも、多くの人に好かれたいという願望がある。しかし誰に対しても如才なく接していると、誰からも重要視されない結果になる。
人には独占欲がある。他の人にもよくしているのを見れば、自分にだけよくしてくれたのではなく、誰にでも同じようにしているのだと考えて、軽く裏切られた形になる。
→普通のお話になら使えそう

世の中で物事を判断するときの基準が常識である。法律は、これ以上の逸脱があったら絶対に人のためにならないという、大きな枠組みを決めたものだ。常識はそれから多少は外れても、社会に大きな影響を与えるものではない。
常識のない人をよく観察してみると、欲が極度に強い場合が多い。守銭奴のように金銭欲が強い人は典型例である。
常識の第一条件は通用する範囲。日本の常識が国際社会で通用しない。
第二は健全な考えかどうか。
→生徒会長とかに言わせたい台詞が結構出てくる

知識の詰め込み度合い。知識を身につけるのは勉学の第一歩ではあり、頭の訓練として手っ取り早いが、詰め込みすぎはよくない。
暴飲暴食が胃腸に障害を生じさせるのと同じで、胃腸が消化できる能力の範囲内で、食べたり飲んだりしないといけない。知識の摂取についても、同じである。頭が十分に理解できる量だけ摂取して、整然とした形で吸収されて知的な栄養となる。
限度を超えて詰め込んでも、頭の中を通り過ぎただけで生きた知識にはならない。
教育などで知識を詰め込ませるのは、教える側の勝手な考え方であり、自己満足でしかない。それを習慣づけられた子供としても、そうしないと気が済まない、不安なので続けているだけである。
→パチュリーは整理が早いのか?

考えられる全ての解釈を試みた上で、自分にとって最も不利な状況になった場合の覚悟もしておく。その上で、最も正しい確率の高い解釈を選び、現状分析にしたがって、ちょっと上を狙った対策をして状況に対処していく。そうすれば最悪の事態が生じても、ある程度の心構えができている。
最悪の事態に備えるのはいいが、最悪の事態になるだろうと思うのはいけない。努力をすれば、それなりの成果が出るというのは真理であるにもかかわらず、これを信じていない人が意外に多い。
→努力、大変、とても、大変

すべてを前向きに考えて積極的に取り組む姿勢はいい。しかし、積極的と攻撃的を混同してはいけない。積極的とは、自分から進んで他に働きかけることで、他人を押しのけて自分が前に出るということではない。
→こういう諭す系の発言ってへたれな主人公とかに言ってほしいね

人が喜んで助けてくれたということは、進んで犠牲になってくれたということである。嫌々ながらも協力せざるを得ない羽目にあった人は犠牲を強いられたのである。自分が進んでいったために、そのとばっちりを食った人も犠牲者である。
人が協力してくれたことまで犠牲であると考えていては、一歩も前進できなくなる。
→同上

人間社会の中での競争は、よりよい成果を実現するための一つの手段でしかない。
現在のビジネス社会はまったくゆとりのない社会で、遥か彼方の理想を目指して努力するというよりも、まず近くにいる競争相手をやっつけるという発想から出発する。
→そーなのかー

自分に特有のスタイルを確立して、それを貫いている人は信頼できる。その人の行動様式について予測ができるから、その点は信用ができるのだ。
確立されていない人はどんな考えをし、どんな行動をするのか予測できない。その人を当てにした計画を立てることに不安を感じるのだ。
→あるある


第三部:人に尽くす心に目覚めよ
子供を育てる親の苦労は並大抵ではない。生まれる前から、生まれてからも四六時中神経を張っていなければいけない。
赤ん坊の間は親は尽くす一方であるが、それで不満を漏らす親はいない。将来、大きくなる事を夢見ているのかもしれないが、それは親の勝手である。ただ可愛いのと、一人では何もできないのを見て尽くしてあげたいのである。
尽くしている理由は、自分が尽くしてあげたいと思っているから。自分の尽くしたいという欲望にしたがっているだけなのである。
→尽くしたい症候群

小説などの題材によくある例であるが、恋人などの関係にあるカップルの一方が他方に貢いでいる場合がある。貢ぐ方は自分を犠牲にし、相手のためを思い一生懸命に尽くしている。貢ぐほうは物質的にはより苦しい思いをしているかもしれないが、精神的には非常に充実した毎日を送っている。尽くすという行為が、人間としてどんなに張り合いがあり、心の休まることであるかの証拠である。
貢がれているほうが成功を収め、貢いでいたほうが捨てられるというのが一般の小説の筋書きである。ここで恨みの感情が頭をもたげてくる。
ここで、こんな人に貢いだのは自分に人を見る目がなかったのだと、潔くあきらめたほうが賢明だ。価値がないとわかった人を深追いしても、惨めになるだけで、何も期待できない。今まで貢いだのを投資だと思って、元を取ろうとすればさらに損するだけである。投資が失敗とわかったときは、深みにはまらないようにできるだけ早く撤退するのが鉄則だ。
→こんな考え方ばかりだと平和になるだろうな

人に尽くすときに注意することは、決して押し付けないこと。相手にとってよいことだと思っても、相手が受け入れてくれるとは限らない。したがって、前もってチェックしてからでないと実行に移すべきではない。自分の独断にならないように、偏見ではないようにと客観的な視点から眺めるのが重要である。
相手の立場に立つのも重要だ、相手が手助けを必要としているのが明らかな場合でも、相手の気持ちにまだ他人の力を借りる用意ができていなければ、反発され、気分を害してしまうかもしれない。
→これを味わい一度挫折して復活とか、ドラマ

タイミングを見計らい、徐々に近づいていき、心を開いてもらう。
人は気に入った相手に対しては心を開くが、気に入らない相手に対しては心を閉ざす。自分が心を閉ざしていると、相手も自分だけ心を開いても仕方がないと心を閉ざす。どちらかが心を開いて接する努力を続ければ、相手も開いたところへ入り込んでみようという気になる。
→尽くす系のお話になると、どうしても小羽が思い浮かぶ

尽きるまでするのが「尽す」ということ
相手のことを思って、その人のために何かを心を込めて努力してみる。もちろん、その結果が望ましいものになるとは限らない。しかし、尽くされた相手からすると、世の中に誰かが自分のことを本気になって心配してくれているということがわかる。
特に、人生に失望しかかった状況に置かれた人の場合、そのような事実を確認しただけで大きな救いになる。実際に助けてもらうとか、手伝ってもらうというところまでいかなくても、真剣に何かをしてくれようとしている気持ちが伝わってくれば、自分はまだ見捨てられていないという自身になる。
→大抵が主人公とヒロインの図に置き換えられる

“男子家を出ずれば七人の敵あり”といわれている。いったん家の外に出れば、敵対関係にある人が多く、さまざまな苦労があるという。
敵と考えれば、攻撃的な人はすぐに戦いを挑んで打ちのめそうとする。そして、自分の利を確保するのだ。できるだけ穏便に済まそうという人は、その人を避ける努力をする。相手が自分の領域に入ってこないように、自分に害を及ぼさないように、守りの体勢になる。
いずれにしても、敵対視する限りはすべて排他的に考えていくので、人間のつながりが形成されることはない。常に、相手を敵視する姿勢になり、心が休まることがない。
世の中の人間関係で、敵はできるだけ少ないほうがよいというのは誰も異存はないはず。ところが、知らず知らずのうちに、多くの敵をつくっている人が多い。会った時点における一時的な感情のおもむくままに、敵と決めつけてしまう。少しは言動に気をつけたりすればいいのに、そのような努力をまったくしない。
初めにちょっと努力をするだけで、味方に引き入れることができる。味方が多ければ多いほど、人生は安全で、確実なものになる。自分を守る最良の道は、まず敵をつくらないことだ。
→正論

人間は一人では生きていけない。皆で仲良く、物質的にも精神的にも豊かな生活ができれば、と願っている。そのような理想的社会を頭に描いて、実現しようとさまざまな努力が重ねられている。
それを実現するための手段として最たるものの一つが、ビジネス社会である。ところがビジネス社会にどっぷりつかってしまうと、目的を達成するための一つの手段として設定したものを一心不乱に追及しているうちに、それを目的と勘違いしてしまう。
目的と手段を混同しないためには、いつも身近に目標となる基準を設定しておくべきだ。
理想的な社会という目的に到達するための、わかりやすい指標は、人に尽くすということである。できる範囲で、自分の周囲から始めてみるのだ。
→そーなのかー

自分に余裕があれば、その余裕の一部を人のために使う。たとえば、自分が人よりも物質的に豊かな生活をしていると思ったら、困っている人たちのために、少しでもいいから金銭的な拠出を考える。自分が僅かな協力をしても、大海への一滴のようなもので、実質的な効果はないだろうというのは間違いだ。確かに、一人ならそのとおりだろう。しかし、真心のこもった行為は人も見習うもので、それが大きな流れになると期待できる。“塵も積もれば山となる”、皆が賛同し、「なだれ現象」が起こるのを期待するべきだ。
ただし、注意することは恵むというニュアンスがあってはならない。
きょしゅつ→ある目的のために金品を出し合うこと。拠出
→ボランティア詐欺ですね


第四部:時代をリードした本物たち
悩みたくなかったら、欲を捨てる
考え方を変えたり、物を見る角度を変えれば、苦しいことも楽しいことになり、悲しいことも耐えられるようになる。しかし、自由自在に考え方を変えるのは至難の業である。人間にはさまざまな欲があり、その執着から逃れられず、悩みが生じる。
キリストは人を愛することの重要性を説いた。財産を多く持っていても幸せにはなれないので、物を求めるのは無意味である。心の満足を得て初めて幸せになるのだ。
幸せということに関して、貧しい人は幸いだ。金も名誉もなければ、身体も丈夫ではなく、頭もよくない。すなわち、心のよりどころとするものを何ひとつ持っていない。そのような状況は、まさに絶望的であり、不幸の極みにある。しかし、それを率直に認める人は、心から神にすがることができる。そういう人を神は大きな力でもって助け、幸せにする。
財産があるとか、身体が頑強だとか、才能があるというように、自分を頼れる根拠となるものが中途半端な人がほとんどだ。しかし、そんなものを持ってるから悩みが次々と押し寄せてくる。何もない人、貧しい人は自分を頼れないので、神という全知全能の存在に身を預けることが容易にできる。
全知全能であるから、当然自分よりはるかに優れた存在である。その神に身を任せるのだから、愚かな人間の一人である自分が考えるよりは、いい結果になるのは間違いない。
→神について、こういう見方もあるのか

社会の矛盾を是正するためには、正義を貫くと称して、力に訴える。力に対して力という考え方であるが、力と力がぶつかった場合は、お互いに多大な犠牲を覚悟しなくてはならない。尊い人命が一つでも失われたら、正義という旗印に汚点がつくと考えるべきである。
ぜせい→悪い点を改め正すこと。是正
人間の内面的な苦しみを描写しながら、常に自分自身を深く反省するのをやめない。自分に対して非常に厳しく、まったく容赦をしない姿勢を貫くのである。
最近は、人に対して厳しい人が少なくなった。人に憎まれたくない、好かれたいと甘い態度に出るのだ。しかし、いうべきことはいわなくてはならないし、厳しくすべきところは厳しくしなくてはならない。人に厳しくできないのは、自分に対して厳しくしていないからである。
自分の教えようと思っている内容を無理やり押し付けようとしても無駄。まず、相手が聞く耳をもってくれる状況を作り出す。人間関係を築き上げる必要がある。言葉で教育するのではなく、全身全霊でぶつかっていく。性急な働きかけではなく、地道に辛抱強く行く。
たとえば、不幸な環境に育った子供。言葉で立て続けに話しかけても心を閉ざすだけ。言葉を最小限に近寄って友達になりたいという気持ちを態度に示すのだ。それを辛抱強く繰り返しているうちにいじけた心も少しずつ開いてくる。相手の心からの反応を待たなくてはいけない。
意見の違いなども含めた、あらゆる種類の紛争を解決するとき、最も手っ取り早いのが武力による方法、いわゆる問答無用だ。しかし力で押し切るのは、物理的であれ精神的であれ、一時的な仮の結論しか出せない。双方が心から納得しない限りは、紛争の解消は難しい。
重大な局面に陥らないうちに、なぜ考え方の違いが起こったのか、なぜ利害が相反するのかを、お互いによく話し合って理解する努力をしなくてはならない。相手の背景がよく理解できれば、争いのほとんどは解決の糸口が見つかる。
現在でも、東洋と西洋での問題はすぐに文化の違いで済ませてしまう。どんな文化の違いなのかを、お互いに住人に説明し理解し合おうとする積極的な姿勢がいい。
岡倉天心の茶の本1960年
→スペルカードルールみたいになれば、力でもいいんだろうけどね


第五部:本物の条件とはなにか
環境にマイナス要因があると判明してから、なんとかしようという感覚しかない。将来に備えて環境破壊はやめようという努力や試みは全くない。予防は治療に勝つという真理も忘れているのだ。
自分の自由を得るためには他人の自由をある程度束縛しなくてはならず、他人の自由を守るためには自分の自由をある程度束縛しなくてはならない。社会においては、自分の自由を制限することが秩序ある自由につながるのである。
企業社会では、流れが変わったり景気の変動で、変化に対応できなくなるとリストラクチャリングをする。現状の見直しを、さまざまな角度から反省して、再構築を試みる。これは人間社会にも当てはまる。
悪い流れを変える努力を積極的に推し進めていくのは、単に世の中の道理がわかるだけではダメ。正しい道を実現するのは、自らも実行に与していく勇気のある人でないとダメ。
現在の世の中を住みよいと肯定しても、それは自分の周辺がたまたま運よく住みよい状態にあるだけである。
人の迷惑を考えない風潮は一般的だ。その最たるものは、物理的、精神的な暴力行為である。自分の我を押し通そうとして、人のことをまったく考えない。自分の権利ばかりを主張し、押し通そうとする。権利があるからといって、前後の見境無く全体の状況も考えないで、利己的に行動しては社会に混乱が起こる。
全員が同じ権利を主張したらどうなるか。末梢的な権利の場合であれば、大混乱におちいる。したがって、権利の主張も人の権利を考えた上で、ほどほどにしなくてはならない。
自分の権利ばかり考えていると、いつのまにか、権利が自分の欲望に摩り替わってしまったりする。現在やってることを、真正面からよくないといってやめさせるのは難しいが、ほかのことをやるようにすすめて、結果的によくないことをやめさせるのは比較的容易だ。
人生は楽しまなければならない。しかし、上手に楽しむのは難しい。人の犠牲の上で楽しんでも、よく考えれば楽しくないし、長続きもしない。人が苦しんでる状況に楽しめるのは、異常な人である。どこかで苦しんでいる人がいたら楽しめないのが、人間性だ。
自分が正しいと思う基準に照らし合わせて間違ってると思ったら、少なくとも自分のできる限りの警鐘を鳴らし続ける。悪いものであっても撲滅できないのが現実だ。革命的手段に訴えても、狙った悪を滅ぶ巣ことはできるが、その周辺にあった悪でないものにまで影響が及ぶ。
全体のバランスを失わず悪を拝するのは至難だ、悪を根絶しようと悪にだけ視点を合わせていると、全体が見えなくなる。全体に対する配慮がなくなり、悪がなくなっても全体にとってはよくない結果になる可能性もある。
したがって、全体に底力をつけさせて、そのエネルギーで悪を包み込み、悪を善に染まるようにするのである。
この考えは東洋医学的な考えだ。西洋医学は病原に焦点を合わせて、それを押さえ込んだり排除する。しかしそのときに、免疫機能が破壊されるなどのマイナス面もある。
東洋医学は身体全体の機能を向上させるのを目的とする。典型例が薬草で免疫をつけ、力をつけ、病原を退治する、外から力を加えるのではなく自力で治すのだ。
平和的な働きかけには切迫感のある圧力はない。よって悪からの反応もすぐには来ない、無視されるかもしれないし、あしらわれたり、ごまかさられたりするかもしれない。
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