QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--/--|スポンサー広告||TOP↑
 力をコントロールするには、まず、どれほどの力が出せるかの確認が必要だ。次に、目標や理由を考える。前方1m地点にボールを投げたい、といったものだ。
 これは思考にも当てはまることだと思う。しかし、私には、思考を制御する理由が見当たらない。正確には、要らない思考を止めたい、というような理由がある。制御するにあたる理由がない、が正しい表現だろう。
 身体の手加減はするのに、思考の手加減はできない。これは、たぶん、思考は手加減しなくても目だった問題がないからだと思う。不都合がないなら、全力でやってしまう。思考することが、すなわち、頭を良くすることだと信じているからだ。
 さて、思考をコントロールできない人間は、頭が良いだろうか。私は良くないと思う。では、上記の対処をやってみるべきだが、なぜかやる気が起きない。
 本当の問題は別のところにあるのだろうか。

 追記はただの日記。

スポンサーサイト
07/23|エッセーコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 相談とは、互いに意見を出して話し合うこと、他人に意見を求めることのようだ。相談は結論を出すものではなく、主に、情報収集、新しい価値観の発見、意見の研磨などに使われるのだろう。私は問題の解決法の1つと認識していた。これを読んでいる人はどうだろうか。

 今日、病院の精神科に予約を入れた。「お前鬱だから病院行け」、とそれなりに言われた経験があるからだ。
 さて、病院という場所は、何らかの不調を解決するために行くものである。自分の不調を解決ということは、肉体的なことでも精神的なことでも、最終的には自分が解決しなければならない。医者は、解決の手助けをする職業だ。例えば、風邪なら薬をもらい、「安静にしてください」などのアドバイスをもらう。怪我をしたなら、消毒や縫うなどの処置を行う。経過は患者に任せることになる。
 上記の例については、問題がはっきりしているのだから、医者は対処し易い。しかし、心の問題というのは非常に曖昧なものである。目に見えないし、正確に言語化ができないからだ。状況を正しく把握できない。つまり、対処が正しくできない(正しい対処があるのか知らないが)。

 患者は解決したいのだから、これらを踏まえて、医者に情報提供をしなければならない。怪我の場合は、見せることで充分な情報提供となるが、心の問題は説明しなければならない。解決したい問題と、なぜ解決できないのか、ぐらいは説明できるようにしておくべきだろう。医者もプロなのだから、そこからは何とかしてくれるものと想像する。

07/21|エッセーコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 何かに集中すると、呼吸するのを忘れる。例えば、読書をしていて、その内容について考えるとき。また、その考えを文字に変換するとき。書き終わってから一息つくと、肺が苦しく、しばらく深呼吸を繰り返すことになる。
 おそらく、チャットや会話をしているときにも、同じような現象になることがあるのだろう。

 私は、長い時間、安定した出力で思考ができない。思慮が浅くなるのだ。もちろん、集中力の低下が原因であろう。身体の疲労ということもあるだろう。だが、呼吸が正常ではないという点が、大きいように感じられる。呼吸が乱れれば疲労は加速するだろうし、集中もできなくなるだろうからだ。

 呼吸までも意識に顕在化しないといけない。極度に緊張しているときに意識するのはよくある話だが、考え事をするだけでこうなるのは不器用な話である。

07/17|エッセーコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 1つの事柄を考えるのは難しい。知らないうちに関係のない事を考えてしまうからだ。昨日の朝ごはんは何だっただろう、と上を向いていて考えてみても、天井の事が気になったりしてしまう。だいたいの人は、大なり小なりこういう事があると思う。
『笑わない数学者』という小説にこのような台詞がある(完全な引用ではない)。“たいていの人は真っ直ぐ走っていない。横実しながらぶらぶら歩いているだけで、自分の力を出せない。走り方を知らない。”私は走っていない自覚がある。ぶらぶら歩いているだけの自覚もある。しかし、走り方を知らない。もちろん、現状が自分の全力なのかもしれないが、私という人間がこの程度とは思えない。思いたくないとも表現できるが、やはり、思えないのだ。

 どうすれば、走れるだろうか?
 余所見(観察、自覚など)をするのが駄目なのか? だが、余所見は必要なことだ。
 考えられるのは、私の余所見が本当は余所見ではないという可能性と、余所見の使い方が間違っている可能性。検証が必要ではあるけれど、私が私である限り検証はできない。
 検証ができないのなら、一度駆け抜けてみるのも良いかもしれない。
 一点の信念を残して壊すのも1つの手段。

“BREAK THROUGH”って良いよね。

07/14|エッセーコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 シナリオを書いて何になるのだろう。SRCについての知識はつくし、シナリオの組み立て、バランス調整など得られるものはある。でも、作る目的は『私が楽しむため』のものだ。
 ドット絵や小説は、楽しむ気持ちがほとんどない。純粋に趣味といえるのはSRCシナリオだけなのかもしれない。そして、だからこそ、シナリオを作る意味があるのか悩むことになる。『楽』という結果を求めて生きているわけではないのだから。

 ようは、遊んでて大丈夫なのか? という心境になるわけです。しかし、その遊びから何を得られているのか、それを考えるのが先決でしょう。もちろん、何を失うのかも大事です。

07/12|エッセーコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 知識を得ることで考える幅が広がったり、観えなかったモノが観えるようになったりする。しかし、今まで観えていたモノが観えなくなることもある。
 例えば、絵。絵とはこういうものと認識してしまい、それ以外を絵と認められなくなる。または、創造できなくなる。これはいろんなことに当てはまる。画一的なものを創造したいのなら構わないことだが、特別なものを創造したい場合は障害となることが多々ある。

 無論、知識と創造をうまく制御できる人もいるだろう。でも、できない人もいる。できない人はどうすれば良いか。情報を取捨選択するしかない。判断できないのなら、ゆっくり、慎重に行動するのが良いと思われる。

 他人の考え。倫理や哲学、考察、宗教、いろんな情報を得たい。しかし、それらを得たあと、私は私でいられるのだろうか。

07/08|エッセーコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 マスクを付ける。
 タバコを吸う。
 うつ伏せになる。
 逆立ちする。
 ご飯を食べる。
 うつ伏せになる。
 目をつぶる。
 流れ星を見る。
 何かを見つける。
 ここはどこだろう。


 どうでも良いけど私はタバコ吸えない人間です。

07/07|エッセーコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 2chのブログ板にある“人が来ないBLOGの管理人集まれ”スレで、気になるレスを見かけた。

>>0か100でしか判断できない人増えてない?

 言いたいことを想像すると、「俺は必要とされてないから死ぬんだ!」みたいな人が増えている、ということだと思う。極端な例だが、つまり、他に解決案が存在すると思われるのにそれを考えない人、ということだろうか。
 このレス(または内容)が気になったのは、自分もこういう考え方(1か0かの判断)をする傾向にあるからだと思う。大波こなみが私の人生の礎、という生き方は最たるものだろう。

 某利根川の台詞にこんなものがある、
「自力で辿り着いたアイディアは、本人にとっては特別でのぉ……、大した考えでなくとも、大変な閃きに感じられ……、なんの吟味もなく、あっさりそれに沿おうとする……!」
 こんな考えの人が増えていたら大変なことになりそうだけど、社会は回っているように見える。頑丈なもんだね。

 エッセーなのに日記のような内容になった。主題が『皮肉』なので内容が書けない。
 ひとまず、吟味をすることが大事なのではなく、どこまで吟味するか、どこまで吟味できるかが肝心である。とかなんとか書いて、無理やり締めておこう。

07/04|エッセーコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 主な機能や簡単に使える機能だけを見てしまう。見えないところで何をしているのか、応用できないか、などを疎かにしがちである。

 上の文章は、銀行について学んで思ったこと。銀行はお金を置いておく場所としか見ていなかった。実際は他にもいろいろ利用できるし、預かったお金で企業を相手に儲けている。
 何かを利用するときは、それがどういう機能で利用できるのかを考えて利用すると面白いかもしれない。調味料の瓶はなぜこんな形なのか、シャーペンの中身はどうなっているのか、専門知識が要らない範囲でやってみたいものである。

 こういう思考法ってなんか名前とかついてないのかな。極端にいえば、目の前のカレーはどんな材料から出来ている? みたいな考え方だけど。

07/01|エッセーコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
 思考の視野が広いということは、たぶん良いことだ。視野の広さ故に考える時間が長かったり、選択を誤る可能性が増えたり、これらはデメリットと思われることもあるが、視野の広さとは別問題といえる。
 反省は大事な機能だ。反省をしなければ、全ての事柄を直感だけですすめることになる。ただ、個人の能力次第では良い結果を導くだろう。私には合わない方法だから批判的に表現したが、悪いことではない。

 視野の広さとは、すなわち反省の数である。ある事柄を判断し、その評価が正しいかと反省し、別の判断をする。この反省をするには様々な視点が必要になる。できるだけ多くの視点を抱えたいものだ。

 視点を多くするにはどうすれば良いだろう。幾つか想像はつくのだが、実行はできていない。

06/25|エッセーコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
ブログ内検索
プロフィール

正面戦士

Author:正面戦士
ルーミアバナー
バナーをクリックするとこのブログの説明らしきところにジャンプします。

最近の記事
カテゴリー
リンク
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
RSSフィード
アクセスカウンタ
ブロとも申請フォーム
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。